4年たった。

もう、4年がたったのですね。
…と、言っていいのか悪いのか。まだまだ、まだまだの部分もあるけれど。

震災の被害は、ほかの地域と比べて本当にびっくりするくらい軽くて済んだ矢祭町。
もちろん、場所によって地割れがあったり使えない道路が出てきたりはあったのですが、それだって「軽い」と言えるほど逆に甚大な被害だったのです。
今の普通の毎日に、「復興」という言葉を使うのが申し訳ないほどで、今はもう震災の影すら感じられません。
(…とはいえ、県内他地域と同じくその後の放射能検査等引き続き実施されていたりはするのですが、それはまた別の話)

4年。
あの時、小学1年生だった娘も4月には小学校6年生になります。
あの時、子供たちを守ってくれた古い校舎は来年度末には閉校、その後取り壊され新たな小学校がスタートします。
授業参観の時など、時折目にするひび割れや剥落など震災直後は不安のもとでしかなかったけれど、「よくぞ子供たちに怪我ひとつさせなかった」と思えるようになってきました。

4年。
あの時は、県内の津波の被害がひどかった浜通りは私にとっては恥ずかしながら「県内のどこか」でしかありませんでした。
もちろん、地名を聞けば知ったところもあったのですが、何せ親戚も友達もいなかったのでテレビに映る景色は景色でしかなく、大変だな可哀想だなと思うけれど身近なものではありませんでした。
奇しくも震災を通じて、浜通りにも友人知人が増え、出かけることも増えました。
4年前「近くのどこか」だったところが、「友達の暮らしがあった場所」となり「友達のふるさと」となり、「そして今も思いが残ると実感できる場所」になりました。
津波の爪痕が未だ残る場所でさえ、生活のにおいがする。元の風景は知らないけど、復興のために大きく様変わりしようとしている海岸の景色を見て「変わっていく」ことを身近に感じられるようになり、もうテレビの向こうの話ではなくなりました。
大変だったな、これからも応援したいな、が、どこかの誰かのためではなく、友人知人、また彼らにまつわる多くの人に向けられるようになりました。

4年って、あっという間のようで実は長くて、そうやって私たちの暮らしや世界を大きく変えてきました。
「風化」とか「忘れない」という言葉だけではなく、「復興」とかそういう言葉でもなく、4年と言う時間の中でみんな少しずついろんなものを積み重ねて今があるんだなと言うことを、今年は特に感じています。
もちろん、課題は山積。景色が変わり、暮らし方も変わり、と、昔と全く同じには戻れないかもしれない。
それでも、「きっと、乗り越えられる」と感じられるのは、ただ、友達が乗り越えようとしているから、と言う理由があるからです。

DSC073854年たって我が家の変化の象徴は「起き上がり小法師」。
震災直後の夏、様々な行事で会津に出かける機会が増えました。
浜通りと同じく会津も、我が家にとっては遠い場所でしたが、奇しくも震災を機に時々伺う場所になりました。
直後の1年で起き上がり小法師が所持数ゼロから一気に数個に増えました。
戴いたもの(写真左奥)、出かけた先で娘が描いた小法師(写真右奥の大きいもの)もあります。

今。
4年たって、どの起き上がり小法師も汚れ、傷ついています。
一番小さい黄色い小法師は、赤と青の兄弟がいたのですがどこかへ旅立って行ってしまったようです。
そして、小さい小法師は色が剥げてボロボロです。

4年間、当店にいらしてくださった小さなお客様たちが、この小法師でたくさん遊んでくれました。
何度も何度も転がしては立ち上がる起き上がり小法師の姿に喜び、笑顔を見せてくれました。
小さいのは小さな赤ちゃんが、一番大きな娘が描いた小法師は起き上がらせるのにはちょっとコツがいるために、挑戦するのは大きなお子さんたち。
「なんでこのおっきいのは後ろの髪が長いの?」なんてところから、会話が始まり一緒に遊んだり。
(ちなみに、当時娘はおさげ髪にあこがれがあったので、いろんなおさげ髪を描いては喜んでいました。それもまた、良い思い出)

何度転がしても起き上がる小法師の姿を、苦難に立ち向かう東北の人々の姿と重ねるニュースもまた、震災以降何度も目にしていますが
そんな小法師で無邪気に遊んでくれるお子さんたちの姿に、私は喜びと希望を感じています。

…プレゼントしてくださった方には申し訳ないのですが、「いやきっと、この起き上がり小法師だって大事に飾られているより、たくさんの子供たちに遊んでもらった方がうれしいに違いない」と心の中で言い訳しつつ。

もう、4年です。やっと、4年です。

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