仙台~松島~飯坂温泉の旅。 ②

旧日本陸軍の兵舎だったそう。仙台最古の洋風建築物。

旧日本陸軍の兵舎だったそう。仙台最古の洋風建築物。

親子でもっこも担いでみた。

親子でもっこも担いでみた。

仙台2日目。
科学館とか博物館とかいろいろ行きたい~!と言っていた娘が、朝起きたら「海の方に行きたい」と言い出し、急きょ予定を変更。
…でも私の気持ちが「科学館とか博物館とか」にちょっと傾いていたので、2人に頼み込んで「仙台市歴史民俗資料館」へ。

仙台というと、「牛タン」「笹かま」「伊達政宗」「東北最大の都市」というイメージしかなかったのですが、こちらを見学して、近代~現代にかけて軍都でもあったことを初めて知りました。
陸軍兵舎だったこちらも、戦後しばらくは米軍が駐留に使用し、その後は警察学校として利用されていたそうです。
戦争と聞くとどうしても体のあちこちが固くこわばるのですが、仙台から群馬へ移動しその後終戦を迎えた人たちの寄せ書きが、実に生き生きと前向きだったこともあり少しほっとしました。

その後、高速を使わないで松島へ。
浜に近づくと、あちこちに津波の爪痕が見られるようになりました。
さかな家店主は震災直後にこちらに旅行し、地元のガイドさんからいろいろ聞いていたそうです。
娘にその話を伝えようと「ほらあそこに流された船が山積みだ」「ほらここはがれきが」と指差しながら教えようとしていました。
でも、私はどうしてもそうすることができませんでした。
町を歩く人や対向車の中に必ずいるだろう地元の人に悪い気がしたからです。
津波の恐ろしさとその後の復興の様子を娘に見せたいという気持ちはあるのです。
が、地震の被害が少ない矢祭町に暮らす私でさえ、遠方からの友人たちが来訪した際「ほらあそこが」「ほらここも」と指差しされながら物珍しげに見ていた、その指と目がとても嫌だなと思ったからだと思います。
悪意はない、というのも十分わかるのですが、ぬぐいきれない違和感が自分の中に今もあるのでしょう。
でも、塩釜港わきに作られていた「しおがま・みなと復興市場」を見つけたときは、娘にわかるように指を差しました。
被害の大きさを知ることも大事だけれど、それと同じくらい、いやそれ以上力強く毎日の暮らしを営んでいる様子を娘には知ってもらいたいと思いました。
その後、松島につき遊覧船へ。

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カモメのえさやりに夢中な娘。
昨年の夏、いわきで同じようなカモメのえさやりを体験しましたが、こちらのカモメの方が積極的というか威勢がいいというか。
いわきの時は手をまっすぐ伸ばしたところをうまくパクッと食べるカモメが多かったのですが、今回は手を伸ばす前にかっさらいそうになるカモメもいたり(笑)
カモメの地域性?面白かったです。
松島の風景も津波の影響で大きく変わったところも多いようで、その都度案内がありました。
ただ、今回が初めてではないこともわかりました。
「チリ島」という島は、チリ地震の際にもともとあった島の一部が崩れて2つの島に分かれてしまったからそう名付けられたとか。
私たち人間は今回の震災で右往左往しているけれど、自然は力強いなあと思ったものです。
松島のお土産屋さんが立ち並ぶエリアには、ところどころに津波が達した高さに印がつけられていました。
まだ復旧されていないお店もありました。
遊覧船の波止場も、津波の爪跡がまだまだたくさんありました。
けれど、そこで働く皆さんの生き生きした表情にホッとしながら、そして「またきっと来よう」と思いながら松島を後にしたのでした。

≪おまけ≫
松島ではさかな家店主たっての希望で「牛たん炭焼 利久 松島店」へ。
仙台に行ったら一度は牛タン!ということでしょうか。今度は海鮮食べたいな。

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